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「インド音楽」とはなにか。蕎麦でも食うか!

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photo:浮花


先日の記事:「1年前の10年後は9年後」

そもそも「インド音楽」ではなかった。

とは、どういうことか?



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少し例を挙げて噛み砕いてみる。

「今夜は冷えるねェ。蕎麦でも食うか!」という落語のセリフがあったとする。

例えば、海外の日本語学校で勉強している生徒が、片言で話したとしても、当然落語にはならない。

「今夜は冷えるねェ」と落語家が咄したとき、どれくらい寒いのか、といことが客に伝わらなければならない。

「蕎麦でも食うか!」と咄したとき、何が伝わらなければならないのか?

伝わるとは、共感を生むこと。

冬の気温、その体感、蕎麦の温かさ、味、などの共感。

日本の冬の気温は、東京では何℃、蕎麦とは、約何℃のスープに、そば粉を練った麺が、などと、幾ら説明しても、落語にはならない。

感覚の共感が生まれないのだ。

これをウンチクともいう。

海外の日本語学校の生徒に、ウンチクを幾ら教えても、落語の面白さは伝わらない。

同じように日本で、音楽そのものとの共感を抜きにして、いくらウンチクを並べても、インド音楽にはならない。

「コンーヤハヒーエルネ。ソバデーモクウカ」のような、言葉のアクセント、テンポ、抑揚、声色、間、息、という、最も重要な要素が無視されたもの、

それが落語と言われても、それは「そもそも落語ではない」

同じように「そもそもインド音楽ではない」となる。



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では、共感を生むためには、どうしたらいいのか?

2つ方法がある。

一つは、冬の寒い時期に日本に来て、温かい蕎麦を食べて体感してみること。

もう一つは、同じ「今夜は冷えるねェ。蕎麦でも食うか!」を、もし北インドの人に想像してもらうなら、インドの冬の早朝、「今朝は冷えるねェ。チャイでも飲むか!」と置き換えてみること。



**


インドで「インド音楽」そのものを体感し、インド人と交流しながら、「コンーヤハヒーエルネ。ソバデーモクウカ」ではなく、共感を生む表現をつかんでいくことが必要になる。

具体的には、そのアクセント、テンポ、抑揚、調子、声色、間、息、という要素がどうあるべきかを掴み、表現していくことだ。

それこそが「ラーガ」と「ターラ」の表現となり、さらに、お互いが緻密に、そして強力に連動していく音楽になる。

それが「インド音楽」なのだ。

共感を生み、聴き手を引き込む力を持った音楽だ。

タブラにおいては、いかにこの「ターラ」を表現し、「ラーガ」と連動させて、途切れさせることなく回し続けることができるか、がまず「インド音楽」としての最低限のラインだ。

うわべのテクニックを並べただけでは、音楽は生まれない。

まずは最低限のラインに立つことではじめて「始まる」



**


これまでの1年間の検証は、そのラインから遠いところにいた自分に気づくこと。

次の一歩は、徹底的に表現の本質にフォーカスしていくことで「インド音楽」のスタートラインに立つこと。

そして、そのラインをしっかり踏み超えて進むこと。

その先には、もう一つの共感を生む、「今朝は冷えるねぇ。チャイでも飲むか!」を日本で想像してもらうための「今夜は冷えるねぇ。蕎麦でも食うか!」がある。

9年後を見据えて、確実に進んでいきたい。





まずは、

蕎麦でも食うか!
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