タブラ奏者 指原一登 オフィシャルサイト

新着情報・ライブ情報・ブログは、新オフィシャルサイト kazutosashihara.com へ移行しました。HEAT bEAT MUSIC 主宰。公演企画・タブラ教室の運営を行っています。

2015年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2015年05月

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

フィールドを創る <モーシン・アリ・カーン来日公演 2015>


<モーシン・アリ・カーン来日公演 2015>

http://mohsinalikhan-japantour.jimdo.com/
1506_mohsin_image_s.jpg


=====


「インド音楽じゃ食えない」

という現状認識から始まって、ではどうしていけばいいのか?

インドで、師匠や先生をはじめ、世界中から集まってくるミュージシャンらと交流していく中で、色々状況を見ていくと、日本の現状は、世界の潮流から取り残され、遅れていると言わざるを得ない。

どういうことか?

=====

アメリカやヨーロッパでは、毎年沢山のインド人奏者が、巨匠も実力のある若手も、ツアーを行っている。

また、インド音楽専門の大学、また音楽大学でカリキュラムに取り入れられたりもしている。

高いレベルの演奏を聴ける機会も多く、その音楽としての価値も認められている。NYのカーネギーホールなどでも歴史に残るようなコンサートが催されている。現代の時代性や空気感、情報の共有といった交流も多く生まれている。


では、日本ではどうか?

まず、来日ツアー自体が極めて少ない。


事情はある。なかなかアメリカやヨーロッパのように、インド人コミュニティーや団体、富豪などの後ろ盾が得られない事情はあって、有志や個人が自費で招聘するというような細々としたものであることは確かだ。

教育関係では、インド音楽の大学もなければ、カリキュラムとして取り扱う音大もほとんどない。


=====

大事なのは、そういう環境面とまた別の部分。

具体的な例を挙げたい。

インドで、外国人の奏者が、巨匠やトップでバリバリに活躍する演奏家と共演するということは、正直難しいところがある。でも、アメリカやヨーロッパでは、良くそういう共演も行われている。

自国の演奏家が共演することで、本人はもちろん、周りも刺激され相対的にレベルが上がる。「具体的な目標」の対象となりうるからだ。聴衆にとっても、「インドから来た宇宙人みたいにすごい人達」でなく、もっと身近な興味も湧くだろう。

そうして「今ここで生まれる音楽」を共有する空気や土壌が生まれる。


日本ではどうだろう?

ほとんどは、インド人スーパープレイヤー同士の演奏があって終わり、というケースがほとんどだ。
「至上の芸術」「高嶺の花」という扱いだ。

それだけのものではあるけれど、「悠久の国インドから〜」「超絶の国」とか言ってしまうことで、遠い存在扱いをしてしまう。

そうして音楽自体が一般からは離れた存在になっていくほど、マニアにとっては、マニアックなものを占有出来る、かつてはそれを商売にも出来た。

もうそんな商売はできない。ただそういう構造だけが残っている。

この点で、世界で起こっている動きから遅れてしまっているのだ。

=====

好みの問題に関わらず、世の中は回り続けていて、激しく変化している。

Youtube も Skype も音楽配信もフリーダウンロードもあって、インド音楽も、アメリカやヨーロッパに限らず、南アフリカや南米、ロシアやアジアの国にも広がっている。


このスマホの時代に、街中で公衆電話はなかなか見つからない(この点インドでは、あんなにどの店の軒先にも会った公衆電話が、もはや空港くらいでしか見つけられない、ほど時代の変化が激しい。。)ように、それは受け入れるしかない。



「最新のスマホより、古き良き黒電話の方が好きなんだ」

それとは別問題だろう。



思い描いている積極的に交流とは、インドや他の海外からの優れた演奏家(知名度だけじゃなく時代を共有していける人達)と、もっとオープンに行き来しながら交流して、レベルも高まる、面白さや魅力も伝わる、聴きたい音楽としても認識される、次の世代へも繋がる、というフィールドを創っていくことだ。

「憧れ」で終わっていたものを「具体的目標」として意識の中に取り込み、「超絶」で終わっていたものを「面白さ」として受け入れられる土壌を創っていくこと。

=====

そんなフィールドはまだない。

だから創っていく。

その一歩がこれだ。



<モーシン・アリ・カーン来日公演 2015>
http://mohsinalikhan-japantour.jimdo.com/



「モーシン・アリ・カーン」とはこの冬のインド滞在でも会って来た。

彼については、また詳しく書いていくので、ぜひ期待してほしい。

| ライブ予定 | 17:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

師匠のNYのカーネギーホールでの演奏


リンクの動画を観てみてほしい。

現在の人間国宝の巨匠二人と、僕の師匠の、NYのカーネギーホールでの演奏。



この動画は10分弱あって、全部観れたら観てほしいし、最初の数分でも構わない。

世界最高峰の歴史に残る演奏のひとつだ。

-----

このスタイルも半世紀以上前にはあり得なかったものだ。

真中の「シヴクマール・シャルマ」という人が、もともとフォークミュージックの伴奏楽器として地位の低かった「サントゥール」という楽器を、改良し、演奏法を編み出し、世に問い始めたのは、ほんの50年ほど前だ。その時は誰も認めようとしなかった。インド音楽に、新しい概念と美学を生み出し、今ではインドの人間国宝である。

右側の「ハリプラサード・チャウラシア」という人は、レスラーの家系に生まれて、今では音楽家として人間国宝にまでなっている。家系が重視されるインドにあっては、これは並大抵のことではなく、様々なエピソードが伝説として語られ続けている。

「オニンド・チャタルジー」師匠は、タブラ奏者として、インドの元宗主国である英議会で演奏した初めての音楽家だ。それまでになかった透明感のある音質と、旋律とのコンビネーション、音楽性の高いソロパフォーマンスで、伴奏楽器だったタブラの地位を飛躍的に高め、また世界中に広めた人だ。音楽家として最高の地位が与えられている。

彼らは、インド音楽の歴史の中で、新たな地平を切り開いたパイオニアとして、世界中で尊敬を集めている。

逆に言えば、本当に歴史に名を刻んでいるのは、パイオニアであった人だけだ。

それが「インド音楽」「インド”古典”音楽」と呼ばれるものの本質を良く表している。

=====

指原一登 Live Schedule

| インド音楽 | 14:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

インド音楽の面白さ(カレー屋や雑貨屋のBGMではない)

この雰囲気のある家

ギャラリー園_s

築80年のこちらの古民家が、4/26(日)の演奏会場となる『gallery園』

=====

先日、「インド音楽をやっています」という話をしていたら「インド料理屋とかでやっているんですか?」と言われてしまった。。

この冬インドから帰国する際、デリーの空港内の雑貨屋からシタール・サーランギー・タブラの音が聞こえてくるので、入ってみると、インド人が生演奏していた。一聴して、あまりに覇気と内容のない演奏に、いたたまれず素通りして出てきてしまった。

上のふたつは、どちらも「客寄せ」のパフォーマンスにすぎない。

それ風の衣装とそれ風の楽器で、それ風の雰囲気を演出するだけで、内容は正直問われない。

「あれが本物だとは誰も思わないでしょ?」

そういう声もありそうだけど、一般の人、一般の旅行者にとっては、それが一番身近なインド音楽の実体験。。

「悠久のインド」「神秘のインド」と謳って、長い間「インド音楽」が演奏され続けてきたのも、そういう一般認識を手助けしている。

それしか知らなかったら・・・

やっぱり想像つかないだろう。

=====

では、何が違うの?

簡単に言えば、もっと面白い。

なにが?

「ドキッと」するような瞬間、「ハラハラ」する瞬間、「ぐわーん」と時空がよじれて「あれっ」となるような瞬間、「ぽぅっと」光が射すような瞬間、そういう体験がある。

インド音楽には本来、抽象的な感情や情感を呼び起こして、そこと繋がりひとつになっていこうとする目的がある。

ただ、雑貨屋やカレー屋など、場所を間違えれば、やっぱり無理だ。

さらに、実際の演奏において、イメージ・ムード・質感などを、どう解釈してどう膨らましていくのかは、演奏者の創造力と力量に委ねられている。

そこに音楽的な緊張感が生まれてくる。

例えば、ゆったりしたムードであっても、そこに「創造」が存在していれば音楽的緊張感が生まれてくる。

「緊張」があれば、その逆の「緩和」もある。

「緊張と緩和」をリズムサイクルとして表現したものが、以前にも書いた「ターラ」というもの。
記事:「ターラ」ってなに?「ターラ」と「ラテングルーヴ」
記事:「ターラ」って何?波形でイメージ

「ターラ」が回り続けながら、もっと大きな尺で波のウネリのような「緊張と緩和」の物語を紡いでいくのが、インド音楽なのだ。

聴いていて面白いのも、「パッと」広がる華やかな場面、一転して深みに「ぐーっと」惹き込まれる場面、「ワクワクする」手に汗握るような場面、そういうめくるめく瞬間を実際に「体験していける」というところだ。

その音楽の中のどこかに、自分自身の体験やイメージを重ね合わせて、楽しむことが出来るんじゃないかと思う。

-----

そのために、演奏者にとっては、確実に、具体的な意図と技量が必要となってくる。

例として、以前に書いた「テンポ」に関することもそのひとつ。
記事:先日のライブ映像「ドゥルット」

先述の「ターラ」の表現力に関してもそう。

この「具体的な意図と技量」の部分が、「即興音楽」というくくりでの甘えや、「古典」という言葉に対する思考停止によって、今までおざなりにされて来たんじゃないか?

それが冒頭の『「客寄せ」的な一般認識で止まっている原因』を作っているとも言える。

=====


4/26(日) の『gallery園』では、

物語をぜひ自身の体験として楽しんでもらいたい

そう思っています。

是非お越し下さい!



150426_gellery_en_ss.jpg

【日時】4/26(日) 14:00 open / 14:30 start
【会場】gallery園
    東京都文京区大塚5-36-2    
【出演】ヨシダダイキチ (シタール) / 指原一登 (タブラ)
【料金】3,000円(1ドリンク+ お茶請け付き)限定20名
https://www.facebook.com/events/629747563791839/

| ライブ予定 | 22:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

コンセプト

屋久杉_s


日本では、アマチュア音楽として捉えられてしまっている「インド音楽」であるけど、その芸術的な魅力と高度な音楽性は、今や世界中で最先端の音楽としても認識されている。

日本へも「インド音楽」が入ってきて、30〜40年にはなる。

その間変わらない国内の現状の理由のひとつには、この音楽が伝統音楽であることから、「古典」というものの据え方・取り組みが、十分に正しいベクトルで為されて来ていないという思いがある。

「古典」といわれる程の伝統というのは、ある時代のある形を枠として、そこにはまっていくことでは決してない。伝統の枠に縛られれば縛られるほど、それを打ち破るパワーが必要で、それが「古典」といわれるほど長く続く魅力となっている。

「正しいベクトル」と言ったのは、先に挙げた「芸術的な魅力と高度な音楽性」を、外に向かって丁寧に発信して行くことだ。

「丁寧に」というのは、専門用語で専門知識を一方向的に講義することではない。それを続けていては、いつまで経っても内向きなベクトルのままだ。


-----


『ヨシダダイキチ x 指原一登』として、シタール奏者・ヨシダダイキチさんと続けているのは、

<「インド音楽」が本来持つ、華やさ・スケール感・ダイナミズム・奥深さを本来のレベルで追求し、さらには日本人の感性や表現力を加味して発展させる>

ということを明確にコンセプトに据えて演奏することである。

こういうコンセプトを持って演奏している人は、この国では誰もいない。

『ヨシダダイキチ x 指原一登』が日本で唯一のユニットだ。


-----

・明確なコンセプト、そしてインド・海外との交流を通して、演奏レベルを上げていくこと。

・そして丁寧にその魅力を発信して、日本での「インド音楽」の認識のされ方を変えていくこと。

それが自分自身の活動のコンセプト。

それこそが、今後もこの音楽が衰退せず日本で存在していくための方法であって、自分自身が続けていくための方法でもある。

そしてそれが次世代にも繋げていける道でもある。


-----


『gallery園で聴く シタール x タブラ』

150426_gellery_en_FB_s.jpg


出演:ヨシダダイキチ(sitar)、指原一登(tabla)
場所:大塚 gallery園
   東京都文京区大塚5-36-2 http://7thwave.info/gallery-en/
時間:開場14:30/開演14:30
料金:予約3000円(1ドリンク+お茶請け付き)限定20名
予約:heatbeatmusic.mail@gmail.com


限定20名様となりますので、必ず事前のご予約をお願いします。

ぜひいらしてください!

| 音楽 | 00:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

「ターラ」って何? 波形でイメージ


「ターラ」って何?シリーズ

リズムサイクルって?

拍子が円運動する?

-----
<写真1>
正弦曲線_s

写真1は、正弦波と呼ばれる波形の図。

音や光の周波数とかを表すときに良く目にするものだ。
ちょうど一周が+と−、正反対の要素で出来ている。

「ターラ」も、この+と−、表と裏、正反対の性格を持つ周期だとイメージしてもらうと、分かりやすいのではないかと思う。

この正反対の性格を「緊張と緩和」という方法で表現している。

そして、この相対立するものの「さじ加減」で、緊張感や立体感や奥行きといったものを表現している。

それを無理矢理に平面図的なイメージにするとすれば、写真2のようにもなるだろう。

<写真2>
ひずみ曲線_s

※写真2は、写真1の曲線にいろいろな要素を干渉させてできたもの。
正確には、この写真の曲線では、円運動の始点を通ってなかったりとおかしい。

あくまでも、真円運動でなく、様々な作用が絡んでくるというイメージを掴んでもらうのに役立てばと思う。

-----

実は、こういうことは学術書や理論書には書いていない。
インドに行って、ひたすらフレーズを教わって来たとしても、実はこういうことは教えてくれない。

だから、ただ理論書に忠実に、または、教わった基本のパターンを、ただ正しく演奏したようなものは面白くないのだ。

だけど、インドでの実際の優れた演奏には、この要素が存分に詰まっていて、音楽が魅力的に輝いている。

なぜか?
秘伝だから教えてくれないのだろうか・・・?

-----

インドでは、この部分はいわゆる「暗黙知」になる。

※「暗黙知」については、以前の投稿をご参照ください。
「暗黙知」から「形式知」


沢山の優れた演奏に触れられる環境、長年師匠の側につき、その演奏を肌で吸収できる環境、歴史的・文化的・宗教的・哲学的背景の理解、など、経験の蓄積によって培われる類いのもの。

外国人として、成人してからこのインドの伝統音楽を学び始める者が、同じ方法ではどうしても無理がある。

そして、これは「形式知」という形で落とし込み、吸収して行くべきだ。

ということを、その投稿で書いた。

その上、

今日もうひとつ付け加えたいのは、

「形式知」に変換できれば、それを面白い形で紹介することも可能だ。

ということ。

そうやって「ターラ」ひとつでも共有出来る人が増えれば、インド音楽に限らず、様々な音楽の発展に寄与することも出来るかもしれない。

ここに至ってそれが「集合知」になる。

こういうことは、逆にインド人には出来ない強みにもなる。

-----


「ターラ」のなにが面白いのか?

実際、カウント法を交えるとまたすごく面白い。

なかなか文字だけで書くにも難しいところがあるので、ワークショップなんかで実体験してもらえるといいかも。



| 音楽 | 01:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

「ターラ」ってなに? 「ターラ」と「ラテングルーヴ」

山北さん1_s

グルーヴに関して、一切妥協を許さないパーカッショニスト・山北健一さんに、
ラテングルーヴの「安定と緊張」という秘訣を教えてもらった。

これはインド音楽で「ターラ」と呼ばれる、周期的なリズムを表すものが、
「緊張と緩和」によって成り立っているのと通じる。


-----

辞典などには、「ターラ」の分類や構造についての知識的な記述は沢山ある。

だけど、そういう知識の部分は、よっぽど興味のある人以外には、
もしくは仮に音楽をやっていてリズムに興味があったとしても、
実際に読んだだけでは良く分からないところのものだ。

-----


では、実際にその「ターラ」を演奏するには、また「ターラ」を聴いて楽しむにはどうすればいいのか?


実際の演奏では、この記述されている知識通りに、
基本のリズムパターンを演奏すればいいと言うようなものではない。

メトロノームのように正確に演奏するだけでは「ターラ」にはならない。

円16等分



「ターラ」が表してるのはリズムサイクル。

なぜ、サイクルなのか?


インド音楽が表現しようとするのは、感情や情緒(個人的なものではなく、多分に詩的なもの)。

その中に揺らぎや変化といった美しさを表そうとすると、
大河の流れや、長い年月をかけて刻まれる大樹の年輪のようなスケールが必要になってくる。
そのため、演奏時間も必然的にスケールの大きいものになる。


自然の摂理には全て周期がある。
哲学にも通ずるところだけど、幾日も何年もかけて全てのものが循環している。

表現しようとするものがあって、その方法なのだ。
手法があって、その中で表現しているのでは、本来的には、ない。


-----


そして、このサイクルが回すためには「緊張と緩和」を生み出していく必要がある。


インド音楽上では、さらに「緊張と【解決】と緩和」という要素が加わって、
ダイナミズムや面白さを生み出されている。

この辺は、深いし、色々書けそうので、また次回に繋げたい。


「ターラ」にも「ラテングルーヴ」にも、ずっと聴いていられる、聴いていたい、
その本質的な要素では通じるものがあったのだ。





| 音楽 | 01:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

安全な教習所の中で 〜インド音楽じゃ食えない〜

前回の投稿で指摘した「インド音楽じゃ食えない」理由と問題点。

記事:「インド音楽じゃ食えない」


ひとつひとつ見ていきたい。


インド教習所_s




まず、最初の指摘から



1)環境がクローズである。

・時代がこれだけ変化しているにも拘らず、
「悠久のインド」も「神秘のインド」も60、70年代のヒッピー時代からアップデートされないコピーである。

・高度な体系や理論、伝統の厳格さなどを説明することは、
 敷居の高さを感じさせはしても価値にはつながっていない。


-----

「悠久のインド」「神秘のインド」については、先の記事でも触れた。

記事:「伝統継承の作法 〜インド音楽じゃ食えない〜」

-----



高度な体系や理論、伝統の厳格さなどはあるけど、
それを説明することは、例えば教習所で交通ルールを説明することに過ぎない。
ルールをいくら知っていても、運転が出来るようにはならないのと同じで、
実践を通していくしかない。


インド音楽なら、インドの現場で、自分の目で見、自分の耳で聴き、
自分の肌で感じて、その実践を積むしかない。
インドで、出来れば現役で活動する師匠に付いて、実際のステージでの演奏、バックステージでの様子、
そして、背景にある文化的なものや人間的なものまで、自分の肌で感じ、教わることが重要になってくる。


そして師匠に学ぶだけでなく、インド人ミュージシャンとも実際に練習や交流をして学び、
そこにあるエネルギーや時代の空気も感じていく必要がある。
そういう雰囲気の中で、インド音楽が表現しようとしているものを吸収し、
自分の表現力に変えていくことが重要だ。


たとえ、厳格にルールの解説や説明をし、そして理論通りの演奏をしたとしても、
教習所で交通ルールに忠実な模範運転をしたところで、
それを観るために一般の人は誰もお金を払おうとはしないだろう。
観る価値、聴く価値のある音楽を演奏することは、教科書通りに演奏することとは別のものなのだ。

まして安全な教習所の中から、F1サーキットの厳しさと危険性を唱えたり、
あれはルール違反だから駄目だなどと言っていても意味がない。



教習所の中で、教習所の中の人達だけに向けて演奏されているような閉じた状況は、
変えていく必要がある。


| インド音楽 | 19:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

伝統継承の作法 〜インド音楽じゃ食えない〜

「観阿弥・世阿弥から約700年、観世流二十六世観世清和のことば」





日本にも約700年、
様々な時代、室町時代、戦国時代、安土桃山、江戸時代、開国、世界大戦、敗戦等を経て、
21世紀の今も続く伝統がある。

世界最古の演劇で、ユネスコの世界無形文化遺産にも指定されている能楽。

http://www.nippon.com/ja/views/b02801/





----

室町時代より続く二十六世観世清和さんの伝統に対する見解は、


・「長い歴史の中で、伝統の枠に縛られれば縛られるほど、
  それを打ち破っていこうとするエネルギーが生まれてきた」

・「そうしたパワーがないと、演劇としての魅力を失っていってしまう」

・「守るために攻めるという葛藤の連続があってこそ、今日まで伝統を伝えることができた」



そして、芸に関しては、



・「一番大事なのは、おのれの芸を磨いて、おのれの芸を到達点へ持っていく」

・「教わって学んで、自分で昇華して、その結論を出していかないと駄目だ」



それは、


・「コピーでは生きた芸として伝わらない」


という言葉に集約されている。

-----




能楽に限らず、インド古典に限らず、世界中の様々な芸能が、何百年と生き残るには、
途方も無い試行錯誤と創造性が必要なのだ。



日本では、インド音楽を「悠久のインド」「神秘のインド」などと言ってきた。

でもそれは、長い伝統を守っていくこととも、そのために必要な打ち破るエネルギーとも、
攻めの葛藤、生きた芸とも切り離された別ものだ。


今のようなインターネットもなく、インドがまだ遠い国だった数十年前までは、
「悠久」「神秘」「神々の」といった表面上の言葉が通じてしまう環境があったかもしれない。。
にわか仕込みでも、好景気やバブルの頃は、それでお金も動いたかもしれない。。



でも、もう完全に無理でしょ?


今の時代には完全に通用しない。



情報も動画も世界中で見れてしまう世の中にあっては、
それを別の音楽として発展させていく(発展させていく意志とエネルギーがあれば)ということは可能でも、
「インド古典音楽」というからには「インド古典音楽」であるもの以外は
「インド古典音楽」としては通用しない。



インドでも、巨匠から、そして現場のミュージシャンから聞く言葉は、


『コピーをするな。いい演奏から沢山学び、生きた音楽を演奏しろ。』





二十六世観世清和さんも、さずがに「悠久の能」「神秘の能」とは言わないであろう。


動画の中では、伝統継承の作法として、
「良い形で受け継いでいってもらうために、能楽の開かれた世界を自分が構築させて頂く」
という意味のことを言っている。


とにかく、まず世界が閉じていては駄目、
外に開いていく力と、開かれた世界が必要なのは間違いない。



| 音楽 | 19:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。