タブラ奏者 指原一登 オフィシャルサイト

新着情報・ライブ情報・ブログは、新オフィシャルサイト kazutosashihara.com へ移行しました。HEAT bEAT MUSIC 主宰。公演企画・タブラ教室の運営を行っています。

2014年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2015年02月

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

インド滞在記

インドに来てから早一週間。
2月中旬までインドにいて、コルカタ 〜 デリー 〜 ムンバイと渡り歩く予定です。


こちらでの滞在の様子は、フェイスブックのオフィシャルページで毎日更新しています。

<a href=”https://www.facebook.com/kazootbeat” target=”_blank”> https://www.facebook.com/kazootbeat </a>

フェイスブックをやっていなくても見られるはずなので、是非覗いてみてください。

気に入ったら「いいね」登録もお願いします。

| 音楽 | 04:01 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

盤山宝積禅師の詩


中国の中唐時代の禅僧、盤山宝積(ばんざんほうしゃく)禅師の詩

向上一路

--- 


向上一路 千聖不伝
学者労形 如猿捉影


向上一路(こうじょういちろ)は
千聖(せんしょう)も伝えず
学者形を労すること 猿影を捉えるが如し


---



上の漢文は、「学ぶだけでは、物事を正しく捉えることはできない。
実体験によって、はじめて自分のものとすることができる。」という意味のもの。
 
理想を目指して高きに向かって進んでいく時、千人の聖者の言葉を聞くことも必要だけれど、結局は自分で体当たりに苦しんでみて、めいめいの人が体得し、解明すべきことであるということ。

千人もの聖者が来ても、それを伝えていないという。
あくまでも言葉としてはいろいろ教えてくれていても、結局生きていくということは自分の問題でしかない。
ここに工夫が必要となってくるわけだ。

「学者」というのは、学問の世界の学者というよりは、むしろ道を求めて学ぶ者。
前回の「毒矢のたとえ」と同じように、その学ぶ者が、物事の外側の、理屈的なこと、概念的なこと、理論的なことに引きずられてしまうと、それは水に映る月影を猿が取ろうとする、その愚かさに似たものとなってしまうであろう、とこういうことを言っている。



---



インド音楽は、「自分で考え、行動し、創造し、向上していくこと」を高度に要求している音楽だ。

言われた事を守るだけで、自分で考えるのを止め、自分の目で見ることを止め、自分で工夫や試行錯誤をせず、理論だけに囚われていては、それこそ「猿影を捉えるが如し」だ。


では、創造していく、クリエイトしていくとは?


それはめいめいが体当たりで体得して行くしかない。
それも本当のインド音楽が発生している現場で。
だからインド音楽を体得し向上していくためには、インドに行って揉まれる以外に方法はない。


明後日にはいよいよインドへ発つ。

有難いお話をいくら聞いていてもダメ、自分で体当たって揉まれもがく以外に向上の道はない、というのだから、それをひたすら実践するだけだ。



| 音楽 | 02:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

「毒矢の喩え」

「毒矢の喩え」


これは仏教の有名な言葉で、次のようなものだ。

--
弟子に、「なぜ世界はあるのでしょうか」「死後の世界はあるのでしょうか、ないのでしょうか」

などと尋ねられた釈迦が、

「毒を塗った矢を射られて身体に刺さったとする。そのときこの矢はどこから飛んできたのだろう、この毒の種類は何だろう、矢を射ったのは誰だろうか、などと考える前にまずやることがある。それはすぐに矢を抜くことだ。」

と答える、という話だ。

つまり、世界はなぜあるか、あの世があるかないか、霊があるかないかの問題を考えるよりも、目の前の問題である、この世の悩み苦しみを解決し、人の生きるべき道を明らかにすることが大事だ、という喩え話だ。
--

釈迦_s



この話を、インド音楽に当てはめるとどうなるだろうか。


「悠久のインド音楽」「神々のインド音楽」「神秘のインド音楽」と日本では紹介される事が多いインド音楽。
確かに、深い哲学はあるけど、それはそんなに簡単に言葉で言えるものではない。


例えば、悠久といっても、実際にシタールやタブラという楽器が生まれたのは、ほんの数百年前で、日本では江戸時代くらいだ。
もちろん現代でも楽器や演奏の試行錯誤は行われている。


20世紀にインドが独立した時、それまで宮廷の特権階級に保護されていたインド音楽は、特権階級の廃止に伴って急速に衰えた。そんな状況の中、社会の変化をいう目の前の問題を理解し、考え、行動したのが彼らだ。
いくつか具体的に名前を挙げると、ラヴィシャンカール、ヴィラヤットカーン、ハリプラサッドチョウラジア、シヴクマールシャルマ、アララカ、ザキールフセイン等々の現在巨匠とされている演奏家達だ。


それまでの時代、タブラなどのリズム奏者は単に伴奏だけをしていた。
ラヴィシャンカール(シタール)とアララカ(タブラ)は、メロディとリズムのアンサンブルによる音楽を生み出し、単にインド音楽に新しい可能性を生み出しただけではなく、メロディ奏者とリズム奏者の関係も封建的なものから対等な関係へと変化させた。

その関係性は、ハリプラサッド(バンスリ)、シヴクマールシャルマ(サントゥール)、ザキールフセイン(タブラ)とつながり、現代のインド音楽そのものと言える形にまで発展している。


彼らは時代の変化を見定め、何をすべきかを考え、行動したからこそ、インド音楽の衰退を止め、現在にいたる発展を成し遂げた。


実際、「悠久のインド音楽」「神々のインド音楽」「神秘のインド音楽」というキャッチコピーでは、その激動の時代のインド音楽の衰退は救えなかっただろう。






現在日本で、この毒矢(目の前の問題)とはなんだろう?



「悠久のインド音楽」「神々のインド音楽」「神秘のインド音楽」という言葉の中には、前述の巨匠達は含まれていないのかもしれない。
例えば、サントゥールという打弦楽器はインド音楽に必要なこぶしの表現に不向きだとして認められないとか、新しい音楽の解釈は習ったことと違うから間違いだとか、信じられない事に、、これら時代を切り拓き、インド音楽を衰退から救った巨匠の功績さえ批判されるのを聞くことがある。
それらの批判は、刺さった毒矢を見ながら全く見当はずれなことを議論していることに当たらないだろうか。
批判は自身を正当化するのに使えるかもしれないけど、肝心なことに目を向けなければ、そうこうしているうちに毒が回って自分自身が死んでしまう。




インド音楽は現在進行形の音楽だ。


そこから目を背けることは、刺さっている毒矢を抜かないに等しい。

時代を切り拓いた巨匠世代からの世代交代は、近年、そしてこれからの数年で、ますます進む。もっと言えば、それを進められなければインド音楽は停滞・衰退する。



今必要なのは、この時代、この瞬間、何を見て、何を聴いて、何をすべきか。


「毒矢の喩え」は、その事をも鋭く言い当ててると思う。




新しい年、時代は現在進行形で進んでいる。
しっかり切り拓いていきたいと思います。


本年もどうぞよろしくお願いいたします。



| 音楽 | 23:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。